動物を飼っている人たちの間では、かなり有名な『虹の橋』のお話。
私自身いつのまにか『虹の橋』と言う表現を普通に使うようになっていた。
子供の頃は『虹の橋』について聞いたことはなくて、私が知ったのは2000年代に入ったか入らないかぐらいの時期だったと思う。
最初にその話を聞いたとき、私にはあまりピンとこなかった。
今、なんとなく気になってもう一度読み返してみたら、
刺さった(>_<)
なんだろう?
私自身の年齢的なものかもしれないし、共に暮らす犬に対しての感情の変化なのかもしれない。
『虹の橋』を要約すると、
この世を去ったペットたちは、天国の手前の緑の草原に行く。食べ物も水も用意された暖かい場所で、老いや病気から回復した元気な体で仲間と楽しく遊び回る。しかしたった一つ気がかりなのが、残してきた大好きな飼い主のことである。
一匹のペットの目に、草原に向かってくる人影が映る。懐かしいその姿を認めるなり、そのペットは喜びにうち震え、仲間から離れて全力で駆けていきその人に飛びついて顔中にキスをする。
死んでしまった飼い主=あなたは、こうしてペットと再会し、一緒に虹の橋を渡っていく。 wikipedia:虹の橋
読み返してみてまず、大きな勘違いをしていたことに気づいた。
あれ?『虹の橋』渡ってないじゃん‼︎
三途の川のイメージだろうか、亡くなったペットたち『虹の橋』を渡るのものだと思い込んでいた。
そう思っていたのは私だけだろうか?
ペットたちは、ひとりで『虹の橋』を渡るのではなく、手前の草原で待っているのだ。
そうか、当時いまいちピンとこなかったのは、ここだったんだ。
橋を渡らずに飼い主を待っているという表現が、なんだか可哀想な気がして感情移入できなかったからだ。
20年程前、この詩を知ったころの私はまだ若く、水滴を彈くピチピチの20代だった。
当時の愛犬フウのことを、家族ではあるが息子と言うよりは親友とか同志のように感じていた。
フウは独立心の強い子だったので、死んでしまった後は、何にも縛られず自由にして欲しかった。
それに私も若く、当分死ぬ気がしなかったので、何十年も待っていてもらうのは申し訳ないと思ったのだろう。
現在の私はだいぶ大人になって、どんなに水分補給してもカッサカサだし、「ライちゃんのママ」と呼ばれることにも抵抗を感じなくなった。
一昨年に亡くなったリンは、寂しがりやで甘ったれだから、橋の手前で待っているような気がするし、待っていてほしい。
順調に行けばまだ何十年も待たせるけれど、あちらの世界ではきっと時間の流れとかも違って、長い年月も一瞬だったりとかするんだろうと、そのへんは都合よく考えることにしよう。
この作者不詳の『虹の橋』お話、アメリカから世界中に広がったそうだけれど、クリスチャンの方々でも辻褄が合うのだろうか?
日本では昔から『八百万のものに神が宿る』と信じられてきた。
大部分の日本人は当然動物にも霊魂的なものがあると考えるだろう。
だからこの詩もすんなり受け入れられ、広まったんじゃないだろうか。
私はどちらかというと『死んだら無』派なのだけれど、都合のいいところだけ『死後の世界』も信じるので『虹の橋』もあると思いたい。
天寿を全うしたら『橋の手前の草原』でみんなシッポを振って走って来るのかと思うと、不謹慎かもしれないけどなんだかワクワクしちゃう!
将来、オットか私のどちらかが残された時、「みんなに会えたかな〜?」と想像するのは、残された者への慰めになる だろう。
「みんな勢揃いしたらどんな感じだろう?」という、現生では絶対ありえない光景も見られるのだろうか?
そもそも動物たちは「今」を生きているし、『虹の橋』の話も人間の都合で創られた物語かもしれない。
でも、やっぱりもう一度会いたいし、忘れてしまった匂いとか思いっきり嗅ぎたい。
『虹の橋』はあると信じたい。